江戸時代。すでにあった仮設住宅
大きな地震があると、仮設住宅をどの程度建てるか・・とか、今まで体育館などの避難所に避難していた被災家族が、やっと仮設住宅に入居しました。。。なんてニュースが流れますね。
江戸時代の仮設住宅は、もっとシステマチックだったようなのです。
「安政江戸地震(1855年)」という本の中に書かれていました。
「江戸時代、この仮小屋を建つる速やかなる事は、すぐに出来る」と佐久間長敬は胸を張る。
その構造は、長い丸太を合掌に組み、屋根に苫(とま)を葺く。入口にはムシロを下げる。小屋の中は、転がし根太丸太を地面に並べて、その上に松の六分板を敷き並べて畳を敷く。これら諸品目は常時たくわえてあった。屋根板はこけら葺きで、1坪ずつ、あらかじめ葺いてある。羽目板(壁に使う板)は四分板が重ねてあり、障子も、雨戸もみんな貯蔵してあった。「千坪ぐらいの仮小屋は半日でに出来てしまう仕組みが用意してあった」と長敬は言う。すごいスピードで工事をしたのである 。
今で言う「海の家」と考えればイメージがつきやすいでしょうか。そして、まさに現代版プレハブ工法です。
事の起こりは、やはり江戸名物の大火が発端のようで、文化3年(1806年)の江戸大火が教訓となってあみ出されていったようです。
江戸時代。食料も備蓄されていた
そしてもう一つすごいことは、食糧備蓄です。
この安政江戸地震の時の「幕府ではなく、町が備蓄していた米の量」は、46万石もあったのです。
46万石とといっててもピンと来ませんが、1石は100升です。当時は今と違い一人1日6合以上は米を食べていたようですから、仮に味噌や漬物代(今の調味料、副食代)と合わせて一人10合=1升が必要量だとすると、実に100x46万=4600万食もの備蓄量になるのです。江戸の町方だけの人口は60万人程度だったらしいですから、十分すぎるほどの蓄えです。
もちろん、米はこの時代一種の貨幣ですから、お金を備蓄しているのと同じ事なので、つねに災害用という意味でも無かったのでしょう。そして、これら仮小屋も備蓄米もすべて、今で言う民間の旦那衆が自治活動として行われていたようなのです。
普段の家賃は高く取る。しかし、いざ災害が起こっても江戸時代「家主は親代わり」といわれた人たちは、キッチリと備蓄に回し、いざという備えを町のためにしていたし、その義務があったようなのです。
貧しく、栄養も十分に取れなかった江戸時代。
でも、その時代にあった十分な災害対策を積んでいたのです。
ちなみに、引用に書かれてあった佐久間長敬と言う人(南町奉行所の与力)は、大正12年(1923年)、85才でこの世を去っています。
幕末を生き抜き、新しい日本の息吹を見、日露戦争を経て、軍国主義が始まりかけるまでの激動の時代を生き抜きました。長生きです。